日記

私が高校生だった頃のはなし。通っていた商業高校の近くにある大学病院におばさんが入院していた時期があって、授業が終わっても真っ直ぐ家に帰りたくなかった私はおばさんに顔を出すふりをしてたびたび病院に寄り時間を潰していた。お土産に古町の「志(じ)まんやき」を買っていくこともあった。病院には最上階のあたりに展望フロアがあり、そこでひとり夜景を見て、気持ちを整えてから重い腰を上げてバス停に向かう。それ以来、病院の展望フロアは私のお気に入りスポットとなった。いまでも大きな病院を訪れるときは決まってフロアガイドをチェックし、機会があれば最上階でその町の景色を眺める。萬代橋を渡ってすぐ、礎町(いしずえちょう)にある図書館「クロスパル」も、当時の私にとって貴重な居場所だった。バイトがなく家に帰りたくないときにはクロスパルへ行き、視聴コーナーで「世界遺産」のDVDを見たり、アウシュビッツの資料や写真集、皇族に関する本を読むのが好きだった(いつだってある特定の趣味に猛烈にハマっている)。そこではよく英語の勉強もしていた。あるとき、ひとりの黒人女性が私のノートを覗き込み「Do you speak English?」とメモ書きを渡してきた。インターネット掲示板で知り合った日本人と結婚し、アメリカから日本に渡り生活を始めたものの、知り合いができず寂しかったのだという。クロスパルで会うたびに言葉を交わし、メールアドレスを交換して友達になった。はじめてお茶をした日、「友達になってくれたお礼」と言って花束をプレゼントしてくれたことを鮮明に覚えている。新潟市内を走る路線バス、新潟交通についても書いておきたい。学生時代、万代シティにある「ケンタッキー」でバイトをしていた(1、2個年上の中途半端なギャルの先輩が前略プロフィールのコメント欄に私の悪口を書いているのを見つけて嫌になりものの数ヶ月で辞めてしまったが)。放課後すぐにシフトインして、だいたい21時頃まで働いて21時半のバスに乗り家に帰るというのが定番だった(と思う)。バイト先から歩いて5分ほどのファミリーマート前にある「万代シティバスセンター前」から乗車して、終点の「北部バスセンター」まで30分ほど。乗車時はそれなりにいた乗客の数も、街を離れ阿賀野川を渡るころにはほとんどいなくなっていて、窓の外は真っ暗だし、10代の私はだんだんと心細くなっていくのだけど、いつも運転手さんが見守るような視線を送ってくれていることに私は気づいていた。正確に言うと、当時は男性不信が強く、通っていた英会話教室の先生でさえも気持ち悪いと思ってしまうことがあり、はじめのうちは運転手さんがバックミラー越しに後部座席に座っている私をちらちらと確認するのをこわいと思っていたのだが、次第にそれは間違いだと、運転手さんは私のことを心配してくれているのだとわかった。直接言葉を交わすことはほとんどなかったけれど(たまに、降車時にぽつりと「お疲れさま」とか「気をつけて」とか声をかけてくれたような気がする)、それがなんとなく安心感につながっていた。陰で私を見守ってくれていた人の存在や街にある居場所が辛い時期を乗り越える心の支えになってくれたと分かったのは大人になってやっとのことで、帰省するたびにあのとき私を救ってくれた何気ない人、場所のことを思い出しては胸がいっぱいになる。