日記

「母親になると何かを失う?」出産を明かせなかった社会学者の問い | 毎日新聞

「出産を明かせなかった社会学者」と私や、私のような名もなき多数の母親たちとのあいだにある埋められない溝、格差のようなものを感じてしまっていつからか彼女の言葉を何も受け付けなくなってしまった。そんなツイートを書いて、消した。メディアで取り上げられているのはよくも悪くも極端な人が多く、でも世の中の大多数はふつうの人で、わたしはふつうの人の話が聞きたいしふつうの人と手を取り助け合い励まし合いたい。ふつうの人の存在をないものにできない。私が尊敬する写真家・濱谷浩は「日本列島」で「私は学校の歴史の時間に、いつも不可解に思っていたのだが、どうして、歴史教育というものは、王侯貴族や武将のことばかりに重点をおいて教え込むのだろうか。日常の民の歴史、民衆がどのような生き方をしてきたか。そのほうがはるかに、私自身の問題として歴史を考え、人間を考える勉強になったはずである。私たち家族の祖先が、どのような環境で、どのような生活を営んできたか。それは現在につながる問題であり、未来への道程ともなるものである。私は民俗学の協力を得て、常民の過去を探り、現在を目撃し、それを記録した」と書いた。いつも心の中に濱谷浩。私は自分のことを徹底した庶民マインドの持ち主だと思う。それはさておき。富永京子さんや、毎日新聞のこの記事に対するモヤモヤした気持ちはなんなのだろうと考えていた。私は、とりわけ妊娠や出産に関しては、いわゆる社会的強者だけでなく、「ふつう」の女性に話を聞くことが大切だと思っている。加えて、記事の中では育児に励む男性のことを「キラキライクメンパパ」と揶揄っていたが、なぜ男性が「育児に参加できない」かも、その社会的背景まで深堀りしないとアンフェアだろうと思う。去年はなにがふつうで何がふつうじゃないのかというのをよく考えた一年だった。例えば夫が鬱になったのだけど、周りの人に相談方々そのことを明かすと「実はうちの家族も、、、」みたいな感じで過去や現在の悩み事を打ち明けてくれる人が少なくなく、一見「ふつう」に見える人でも実は様々なトラブルや不調や悩み事を抱えているものだと知った。壮絶とまではいかないけれど苦労している人だって大勢いる。総合病院に通っていた夫は「健康そうに見える人でも、なんらかしらの理由があって総合病院に来ていて、みんな色々ありながらも頑張っているんだなって思った」と言っていた。なんだろう、そういう人たちの存在も「ふつう」に社会にあるものだと思えれば、自分が働けなくなったって心が病んだってもう少し気持ちがラクになるのではないかと思ったりする。私は何が書きたかったんだっけ。今日はバイトだった。私はバイトの拘束時間は基本的にどんな業務内容であっても時給で支払われるものだと思っているのだけど(例えば厨房の担当だけどヒマだったから店の掃除をした場合とか)、いつも通り10時半に出勤して、駐車場に少し雪が積もっていたので雪かきをしたら退勤時に店のおばあちゃんから「ななちゃん、雪かきありがとうね」って手作りのサンドイッチをもらってびっくりしたと同時に嬉しかった。バイトだから雪かきしただけなのに。バイト先、バイト先と言ってしまえばそれまでなのだが、今となっては、私にとってもう一つの居場所となっている。