日記

午後から半日、ギャラリーのお店番をした。新しくオープンしたばかりのこのギャラリーは無機質な空間に新進気鋭のアーティストの作品がとてもよく合っていて、映像作品から流れる壁掛け時計の音とネズミの話し声だけが響いている。通りに面した大きな窓に目をやると、行き交う車やたまに歩いている人の姿が目に入る(この時期、北陸では外を歩いている人が極端に少ない)。あまりにミニマムで研ぎ澄まされたスペースだったのでステッカーがべたべたと貼られている自分のパソコンを取り出して作業をするには気が引けたのだが、よしとした。仕事だろうとお使いだろうと、一人で過ごす休日は良い。ちょうど編集のお手伝いとして少し関わらせてもらった本のゲラが届いて、さっそく目を通す(ずっと楽しみにしていたのだ)。まだ印刷こそされていないとはいえ、デザインの力、本の力をまざまざと見せつけられたような感じがした。実物を手にする日が待ち遠しい。おととい、明け方にまるで両耳のすぐそばでシンバルを鳴らしているような耳鳴り、右と左から交互にパーンパーンと激しい音が聞こえてきて驚いて目を覚ました。こんなに激しい耳鳴りを経験するのは初めてで、これが続いたらしんどいだろうなあとか思いながら平常心を取り戻しふたたび眠りにつくと、今度は自分がパレスチナにいる夢を見た。一挙一動が死につながる。いつも生きた心地がしなくて、一秒が永遠に感じられる。正しい行い・選択など一つもなくて正しくても間違っていてもいずれは殺される。ただ殺されませんようにとひたすら祈るだけの時間。最悪だった。SNSであえて意見表明をしなくてもイスラエルと関わりを持つ欧米企業をボイコットしなくても心を寄せることはできるし、関心を持ち続けたりときにニュースなどを通じて心を痛めている人は決して私だけではないだろう。気をつけなくてはならないのは異なる意見を持つ人を排除することであり、自分と同じ言動をしないことを咎めるような態度から分断は生まれ、また、より一層深くなる。そんな場面をここ最近よく見かけるような気がする。連帯というのは気に入らない人を排除するためにあるわけではないはずだ。そんなこともあって昨日は久しぶりに睡眠導入剤を飲んでから就寝したのだけど、まさしく眠りに落ちるというタイミングで夫とテレビを観ていた娘が歯ブラシを持ってやってきて、入眠のチャンスを失ってしまった。最近調子がよくなくて、といっても調子が良くないと気づいたのは先週の金曜日のことである。いきなりぐわっと調子が良くないモードがやってきて、振り返ればここ一、二ヶ月気分転換の時間、ゆっくり休む時間をとっていなかったことに気づく。いつものことである。普段のちょっとした疲れや心のゆらぎを見つけることができなくて、積もり積もって爆発する。身体や心に症状となって表れるときにはもう遅く、丸一日寝て過ごしたり家族と離れて一人で過ごしたり、そういう時間が必要になる。五時間の勤務を終え、スーパーに立ち寄り鍋の材料や酒や刺身を買い込んで家に帰った。座りっぱなしとはいえ半日の労働を終えた私の身体は十分に疲れ切っており、私にしては珍しく缶ビールを調子よく飲んだ。別行動していた夫と娘もお腹を空かせていたようで、鍋の中身はあっという間になくなった。食後、ソファに倒れ込むように横になり、お腹が落ち着いてから食卓の上を片付けていると、私が手をつけた缶ビールはまだ半分以上中身が残っていた。