本当は放っておいても勝手に育つのだろう

どこかへ行きたい、何かをしたいと思ったときに、ふと「子連れで大丈夫だろうか」という不安がよぎり、「子連れだったらこっちの方が無難なのではないだろうか」と、やりたいことをどんどんダウングレードしながら、もやもやした気持ちになる。「私の人生の主役は私だ!」と大声で叫びたくなる、のだけど。よくよく考えたら子どもから「ニュージーランドより北海道の方が楽でいいよ〜」なんて一言も言われてないんだよね(来年海外旅行にでも行きたいねって夫と話してた)。あくまで大人(親)が勝手に何かを計画してそれを子どもに合わせ(たつもりになっ)て、勝手にやきもきして。今日、運転しながら育児について考えていた。「子を育てる」なんて言うけれど、野菜や果物なんかと違って収穫することがない作業。いったい私はどこに向かって「育て」ているのだろうか。そもそも「育てる」なんて烏滸がましくって、本当は放っておいても勝手に育つのだろうとも思う。やっぱり、子に合わせて何かを決めるのではなくって、子どもが自分で意思決定できないあいだは、同居人としてこちらの都合に付き合ってもらうくらいがお互いにとってちょうど良いのではないか。

 

そういえば今月の「母の友」には、「母親だから、『良い』影響だけを与えられるはずと信じているなら、それこそ刷り込まれた幻想です。子育てが思い通りにいかないと自分を責めるお母さんは珍しくありませんが、それは、無意識に抱かされた『母親ならできる』という万能感の裏返しではないでしょうか」(「子育てがつらくなるのは、なぜ?」臨床心理士 高石恭子)と書かれていた。きのうの晩、犬の散歩を終えた帰り道、車の運転中は映像がうつらないテレビから「カツオが好き嫌いをしないのは、姉さんがいろんな食材を使った料理をたくさん食べさせてくれたからだね」と聞こえてきた。「幼い頃からの読み聞かせで本好きになる」然り、子どもの特性について、長所と思われるものを「母親(父親)のおかげ)」としようとする、投資回収的な考え方がとにかく苦手だ。

 

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この週末は家族でゆっくり過ごしていた。土曜日は私の通院のため朝から家族で街なかに出かけ、病院で薬を処方してもらったあと、娘と夫と百貨店に行って平成レトロな屋上のプレイランドで遊び、物産展で美味しそうなものを買ってお昼に食べた。私はかきめし、夫は高級な豚の角煮を選んだ。クリスピークリームドーナツも出店していたので6個入りを持ち帰り、昼食後に夫と子と3人でおいしいねえ、本当においしいねえと言いながら味わった。お昼寝をして夕方みんなで犬の散歩に出かけた。暑すぎず寒すぎずの素晴らしい秋晴れで、心も身体も気持ちよかった。家族と静かで充実な休日を過ごした直後、揺り戻しのように一人で遠く離れた国を旅したくなってしまうのが自分の性分のようで、夜はずっと逃避ムードになっていた。マンハッタン島を端から端まで歩いてクタクタになったり、初めてのグランドキャニオンに言葉も出ず感動して涙を流したり、トルコの地方都市を結ぶ夜行バスに10時間乗って、夜明け前よく分からない場所に降り立ち、ホテルの待合室で日が昇るのをただ待つみたいな、言葉には表せない、ただ生きていることを実感するような体験がふとしたときに恋しくなる。久しぶりに思い出したゆらゆら帝国の「2005年世界旅行」はやっぱり良い曲だった。「どこだってすぐ行けるんだ 行こうと思えば行けるさ だってこの空は続いてるんだ 風さえあれば行けるさ」。ここではないどこか遠くに行きたい。