「頑張る」はスタンダードじゃない

夫は昨日から入院。朝、二人で娘を保育園に送ってからその足で病院に向かい、入院の手続きを見届けて別れた。「せっかく県内でも大きな病院に入院するんだから、(インスタグラムの)ストーリーズでいろいろレポートしてよ」という私のリクエストに応えるように、夫は病室の様子や食事の写真を撮ってはせっせとアップしていて、それを見るのが私の楽しみになっている。4泊5日の入院合宿のはじまり。

 

数ヶ月前から家事の分担を見直し、これまで私が担当していた家計の管理(実はこれがすごく苦手だったのだ)、日々の献立を考えることと食料品の買い出し、夕飯の用意を夫がすることになった。我が家は夜、夫が仕事のためおらず、私はほとんど夕食を食べない(か、おにぎりなどで軽く済ませる)ので、夕食の献立は子どもが中心の構成となっている。久しぶりに作る、といっても日頃味噌汁を作ったり副菜を作ったりと何かしらの料理はしているが、娘の夕食。先日仕事でもらったさつまいもがあったので、とりあえず汁物はポタージュに決めた。家に帰って洗濯物を回し、さつまいものアクをとって、下茹でしているあいだに風呂を洗い、洗濯物を干し、自分の軽食をとって、仕事も少しずつ進めて、確認事項があったので仕事先に電話をして、さつまいもが柔らかくなったらハンドブレンダーでなめらかに潰して牛乳と和えて鍋で温める。ここまでの作業でどっと疲れて、メイン料理を作るのもブロッコリーを茹でるのもやめて、夕方、娘を保育園へ迎えに行った帰りにスーパーに寄って白身魚のフライを買い、温め直して食卓に並べた。夫はいつも21時半に仕事を終えて、その15分後くらいに家に帰ってくるのだが、昨日は19時くらいからなんとなく心細くなった。それでもしっかり夜寝ることができたのは娘が隣で眠っていたからで、いつのまにか私が一方的に「守っている」のではなく、私もまた娘の存在によって安心しているのだと気づいた。

 

今朝、目覚まし時計のおかげでなんとか起きる。普段は娘の朝食からお着替え、保育園の送りまでを夫が担当してくれているので、私はほとんどぼーっとして過ごしている。夫の「定番」である納豆巻きを作ったら、いつもは丸々2本を平らげる娘が「でかい」と不満を漏らし(たしかに少し太くなってしまって納豆がはみ出ていた)、食べ終わる前から「よーぐると」を要求。納豆巻きは、1本も完食してもらえなかった。その後、ばたばたと支度をして8時52分に登園(本当は8時50分までに間に合わなければならない)。出発前にカバンの中身を確認して、忘れ物をしなかったのが私にしてはグッジョブだった。いったん家に帰り、着替えてパソコンや本や仕事道具などを抱えて病院に到着、今に至る。手術は3時間を予定していて、このあと私は主治医から説明を受けることになっている。

 

さつまいものポタージュを作って家事をしたらどっと疲れてしまったり、娘と一緒に起床して朝の支度をして送り出したらそれだけで一日のエネルギーを使い果たしてしまったり。「こんなん無理やわ」と心のなかでつぶやいたあとに、「世の中のお母さんたちは普通にやってるよ」「フルタイムで働いているわけでもないのに」「慣れればなんてことないよ」と、知らない誰かの言葉が返ってきた。たしかに私はこれまで楽に慣れていたのかも知れない、と弱音を吐いたことを反省したが、一方で、別に一生懸命頑張ることが「普通」じゃなくても良くない?と反論したくなる。

 

"両親も妹も同級生も、昔一緒に働いていた人たちも、私の顔を見ると「今、何しているの」と訊く。その質問に悪意など微塵もないことはわかっている。本当に純粋に、何をしているかと問うているのだ。私は「何もしていない」と答える。本当のことだ。すると「何もしていないわけないでしょう。じゃあ、きょうの昼間は家で何をしていたの」と再び訊いてくる。時間を狭めたところで、やはり私は何もしていないのだ。「じっとしていた」と言うと、相手はようやく苦笑いで解放してくれるのだった。"

 

このあいだ、こだまさんの「夫のちんぽが入らない」を読んだあとに思ったことは、世のなか「頑張る」ことがスタンダードになりすぎているのではないかということだった。仕事も育児も部活も趣味も、放っておいても人間は自ずと頑張るものなのだ、ということが大前提となっているから、手を抜いていたり本気で取り組まなかったりする人のことを「どうして頑張らないの?」「もっと頑張れるのに」と言う。そうじゃない、世の中にはもっといろんな人がいて、頑張ることに意義を見いだせない人もいるし、頑張る必要がない人もいるし、頑張りたくても頑張れない人もいるし、そもそも人によって「頑張る」の方向も方法も違う。頑張らないことを頑張っている人だっている。

 

今月号の母の友の特集「完璧な親じゃなくていい」。記事の一つに、「頑張る」という言葉には、「困難に耐え、努力してやり通す」のほかに、「自分の意志や考えを通そうとする」という意味があるのだと書いてあった。時に、例えば今回の私のワンオペ5日間のように(本当は今日から実家の母がサポートに来てくれます)頑張らなきゃいけないときもあるのだけど、誰かと比べて頑張りが足りないなとか、これくらいじゃ弱音を吐いちゃいけないなとか、そういうことは思わなくてもいいんじゃないかと、自分の意志や考えを見直したり無視したりしてもいいんじゃないかと、思ったりした。