日記

左手の中指と薬指を頭頂部よりも少し下の場所に持っていき、髪の毛が空白になっている部分に当てて優しく撫でる。髪がないため他の部分と比べてへこんだ感じになっていて、髪の毛が生えている部分が草原だとすると、ハゲの部分は生えたての芝生のような柔らかくて気持ち良い感じになっている。今週の始めに思い立った勢いで予約した美容室で見つかった円形脱毛症は自分が円形脱毛症と聞いて想像するよりも少し大きく、ハゲがあること自体は大した問題ではないのだが、ハゲができる何らかの理由があったということに軽くショックを受けた。円形脱毛症になったのは今回が初めてではなくて、把握している限りでは小学生だった時に一度経験したことがある。中学校へ上がる前まで私のトレードマークはツインテールで、それは母の趣味によるものだったのだが、小学生の頃は毎朝登校前に母から結んでもらっていた。ある日、いつものように髪を整えてもらっていると、母が「ハゲがある」と言った。当時の私にとってハゲと言われてもピンとこず、「一部分の髪の毛がたくさん抜けた」程度の認識で特に気にすることもなかったが、母は「小学生の娘がハゲるような何らかの理由があった」ことにショックを受けていたようだった。母に連れられて訪れた皮膚科(だったと思う)で育毛剤を処方されて毎日毛がなくなった部分に塗っていたのだが、その育毛剤の匂いがとても特徴的で、また塗った部分から液体がこめかみの方向にむかって垂れてくる不快感をいまでもよく覚えている。で、いまのハゲ。友人である美容師によると「だいたい四ヶ月前にできたハゲ」で、ということは昨年12月くらいにできたものだと思うのだけど、これといって思い当たるストレスもなければ仕事が忙しかったということもない。人は知らず知らずのうちにストレスを感じたり溜めたり、また自律神経やホルモンが乱れるのかもしれないなあというごく普通の感想を抱いた。私はハゲをからかったり、「ハゲ」という言葉を悪口や相手を傷つけるために使ったりすることに断固として反対している。以前、夏葉社の島田潤一郎さんが「パパをハゲといって笑う人がいたら、私はカンカンに怒ります」と娘が息子に話している。うれしいな。」とポストしていたが(https://x.com/natsuhasha/status/1732674532807479628?s=20)、娘さんの感覚に極めて近いと思う。それは私の夫がスキンヘッドということも関係している(ちなみに島田さんと夫のヘアスタイルはよく似ている)。スキンヘッドはハゲではない。夫が30代の頃から一貫してスキンヘッドにしているのは若い頃からだんだんと進行したハゲが理由だったと聞いたことがあるが、ハゲだからスキンヘッドなのではなく、スキンヘッドを選んでスキンヘッドにしている。というか、別に全ての毛髪がハゲたからスキンヘッドであろうとスキンヘッドを選んでスキンヘッドにしていようと大した差はないと思う。ハゲは別に面白くないし笑いの対象でも馬鹿にしていいものでもない。一方でというのか、私は自分にハゲが見つかってショックを受けた。それはハゲ自体が悪いのでは決してなく、どちらかというと自分が不妊症だと告げられたときのショックに似ているような気がした。かつて私は産婦人科医から不妊症と診断され「子どもが欲しくなったら治療をしましょう」と言われたことがあるのだが、その頃、子どもを持つ希望は一切なかった。なかったけれど、当然あるべき機能が失われている状態、子どもを持つという選択肢を持っていないという現実は少なからず私に衝撃を与えたのだ。私の円形脱毛症は現在回復中で「ハゲたところから少しずつ髪が生えてきているから大丈夫」と言われた。だけどもしこれ以上髪の毛が生えてこないとしたら。髪の毛を伸ばすという選択肢がなくなったとしたら。仕事で付き合いがあるバリアフリーに知見が深い人が話していた言葉を思い出した。「他に選択肢がない人が優先されるべきである」。それほど選択肢がなかったり他の人に比べて少なかったりするというのはハンデキャップだったり精神的に負担を与えるものだったりするのだ。私は自分に見つかったハゲにショックを受けたけれど、そこに生えたばかりの髪の毛はそのうち伸びてくるだろう。

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このあいだ、犬の散歩をしていると道端に写真のようなものを見つけた。近づいてよく見てみると、紙焼きした写真よりもずいぶん薄っぺらい。胎内を写したエコー写真だった。エコー写真が道端に捨てられている理由をいろいろと想像して、あまりポジティブな理由ではないかもしれないと思い拾い上げず遠目に見るだけでその場を離れたが、しばらく犬と歩いてふたたび同じ道を戻ってきたときに思い切って手に取ってみた。そこには「SUZU SOUGOU」という病院名を表す文字と10年前の夏の日付が書かれており、妊娠初期と思われる小さな小さな胎児の姿が映っていた。近辺には二、三枚、同じ病院で撮影されたエコー写真が落ちていて、なぜこんなところに遠く離れた珠洲市総合病院で撮影されたものが、と不思議に思ったのだけど、近くにゴミ処理場があり、震災以降県内外から応援に駆けつけているゴミ収集車の出入りがあることを思い出した。もしかしたら災害廃棄物かもしれない。10年前に生まれたであろう命が今も健やかであること、そしてこのエコー写真を子どもが生まれてからも大切にしていた持ち主の無事を願った。そんな日の夜、珠洲に暮らす知人から久しぶりにメッセージが届いた。話によれば、しばらく金沢で生活をすることにしたらしい。いつかフェミニズムに関するお気に入りの本を10、20冊ほど貸したことがあり、年末の大掃除で私に返すためにまとめていたものの、地震で家の中に取り残されたままになってしまったらしい。そのことを申し訳なく思って、わざわざ私に連絡をしてくれたのだ。実は震災から数日経った頃、あの本たちはどうなっただろうと気になったことがあった。心の中で、たぶんダメだろうということはわかっていた。彼女に渡していた本は、私が集めた中でも特に大切にしていたフェミニズム本で、どれもずっとそばに置いておきたいと思っていた。けれどほとんどのタイトルが思い出せない。また手に入れようとも、何の本が失われてしまったかさえ分からなくなってしまったのだ。この期に及んで本のことを心配する自分に嫌気がさしたが、彼女から連絡がきたときに、本がここにあるかどうかは問題ではないと思った。どの本も、私の血となり肉となっている。タイトルを思い出せなくても、モノとしてここに残っていなくてももう大丈夫だと、本当にそう思ったのだ。無事でいてくれてありがとう。

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午後から半日、ギャラリーのお店番をした。新しくオープンしたばかりのこのギャラリーは無機質な空間に新進気鋭のアーティストの作品がとてもよく合っていて、映像作品から流れる壁掛け時計の音とネズミの話し声だけが響いている。通りに面した大きな窓に目をやると、行き交う車やたまに歩いている人の姿が目に入る(この時期、北陸では外を歩いている人が極端に少ない)。あまりにミニマムで研ぎ澄まされたスペースだったのでステッカーがべたべたと貼られている自分のパソコンを取り出して作業をするには気が引けたのだが、よしとした。仕事だろうとお使いだろうと、一人で過ごす休日は良い。ちょうど編集のお手伝いとして少し関わらせてもらった本のゲラが届いて、さっそく目を通す(ずっと楽しみにしていたのだ)。まだ印刷こそされていないとはいえ、デザインの力、本の力をまざまざと見せつけられたような感じがした。実物を手にする日が待ち遠しい。おととい、明け方にまるで両耳のすぐそばでシンバルを鳴らしているような耳鳴り、右と左から交互にパーンパーンと激しい音が聞こえてきて驚いて目を覚ました。こんなに激しい耳鳴りを経験するのは初めてで、これが続いたらしんどいだろうなあとか思いながら平常心を取り戻しふたたび眠りにつくと、今度は自分がパレスチナにいる夢を見た。一挙一動が死につながる。いつも生きた心地がしなくて、一秒が永遠に感じられる。正しい行い・選択など一つもなくて正しくても間違っていてもいずれは殺される。ただ殺されませんようにとひたすら祈るだけの時間。最悪だった。SNSであえて意見表明をしなくてもイスラエルと関わりを持つ欧米企業をボイコットしなくても心を寄せることはできるし、関心を持ち続けたりときにニュースなどを通じて心を痛めている人は決して私だけではないだろう。気をつけなくてはならないのは異なる意見を持つ人を排除することであり、自分と同じ言動をしないことを咎めるような態度から分断は生まれ、また、より一層深くなる。そんな場面をここ最近よく見かけるような気がする。連帯というのは気に入らない人を排除するためにあるわけではないはずだ。そんなこともあって昨日は久しぶりに睡眠導入剤を飲んでから就寝したのだけど、まさしく眠りに落ちるというタイミングで夫とテレビを観ていた娘が歯ブラシを持ってやってきて、入眠のチャンスを失ってしまった。最近調子がよくなくて、といっても調子が良くないと気づいたのは先週の金曜日のことである。いきなりぐわっと調子が良くないモードがやってきて、振り返ればここ一、二ヶ月気分転換の時間、ゆっくり休む時間をとっていなかったことに気づく。いつものことである。普段のちょっとした疲れや心のゆらぎを見つけることができなくて、積もり積もって爆発する。身体や心に症状となって表れるときにはもう遅く、丸一日寝て過ごしたり家族と離れて一人で過ごしたり、そういう時間が必要になる。五時間の勤務を終え、スーパーに立ち寄り鍋の材料や酒や刺身を買い込んで家に帰った。座りっぱなしとはいえ半日の労働を終えた私の身体は十分に疲れ切っており、私にしては珍しく缶ビールを調子よく飲んだ。別行動していた夫と娘もお腹を空かせていたようで、鍋の中身はあっという間になくなった。食後、ソファに倒れ込むように横になり、お腹が落ち着いてから食卓の上を片付けていると、私が手をつけた缶ビールはまだ半分以上中身が残っていた。

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先週、我が家に新しいオーブンレンジがやってきた。3年前、私が一人暮らしをしていた頃から使い続けていた無印良品のオーブンレンジが壊れたときに夫が代わりのものを買ってきたのだけど、それはオーブン機能が付いていないただの電子レンジだった。温め時間も20秒刻みでしか選択できないようなかなり質素な電子レンジで、その分値段も安かったと聞いているけれど(妊娠中だったため完全に夫に任せた)、私はずっとパウンドケーキを焼いたりマフィンを焼いたりしたい気持ちを我慢してきた。娘が生まれると一緒にお菓子を作りたい欲がどんどん増して、家電量販店へ行くたびにケーキを作ったりクッキーを焼いたりする妄想を膨らませてきた。子どもが生まれる前、私は会社員をしていて安定した収入があった。収入はあったがゆっくりとお菓子を作って楽しむような時間はなく、かわりに地域情報誌の編集者としての知識、たとえば地元で人気のパティスリーだとか、いつもすぐに売り切れてしまう焼き菓子専門店だとか、そういう情報をばかりを蓄えていき、お金を払えば自分で作るよりもはるかに美味しいものを食べられるのにあえて手作りする意味なんてどこにあるのだろうと思うようになっていった。自分で作る醍醐味は、作る過程そのものであり完成を待つ時間である。今朝、私がバターロールに挑戦しているあいだ、夫は「まるで自給自足のような時間の流れ方だね」と言っていた。つい先日、テレビでほとんど自給自足をしている家族を紹介する番組を見た。自分たちが着る衣類を手作りし、薪で火を起こして風呂を沸かし、料理も床下暖房も暖炉も火でまかなう。時短を謳う家電が人気を集めるのはすなわち家事をする時間がないからで、浮いた時間に何をしているかと言えば多くの人は仕事にあてているのではないだろうかと思う。ひるがって自給自足ファミリーは金ではなく生きるためのこと、つまり家事をライフワークにして時間を費やしていた(余談だが田舎暮らしや自給自足ライフに触れて「金を使わず金を生み出すこともない生活なんて」と驚きの表情を見せるコメンテーターや芸能人の馬鹿馬鹿しさよ)。バターロール作りでは一次発酵(35℃)で40分待ち、生地を9等分してから丸めて10分休ませ、その後の二次発酵(40℃)でさらに40分、のんびり待った。8時半にパン作りを始めたが、レシピに「15分間こねる」とあった生地をつくる作業に45分もかかり、当初夫に「10時には焼きたてを食べられると思うよ」と伝えていたのだが、結局、9つのバターロールが焼き上がったのは11時だった。たびたび思い出すことがある。高校生の頃、オープンキャンパスのついでに親戚を訪ねたときのこと。東京を案内してくれたおじさんが「東京は電車を逃してもすぐにまた次の電車が来るんだよ。便利だけど、電車を待つ時間は立ち止まって休む時間でもあるから疲れちゃうんだよ」と話していた。待つ時間、誰かに待たされる時間は作業を止めて休んだり考えたりする時間でもある。2回の発酵時間のあいだ、オーブンレンジの前でスツールに座ってただツイッターを見ていた。このあいだに本でも読んだらもっと豊かな時間になるのかなと想像しながら、完成を楽しみに待った。二次発酵を終えた生地はこれまで触れたことがないほどやわらかくてふんわりしていて、こんがりと焼き上がったバターロールは既製品と比べても遜色ないくらいおいしかった。

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大学一年生の頃、いっときSEE BY CHLOEにハマっていて、トートバッグやらロンTやら、ネットで割引率が高いものを見つけたりセカンドハンドショップで掘り出し物を探したりしては買い求めていた。暑くなり始めた頃だったと思う。その日は大学に一番近いアパートで一人暮らしをしている男の子の家にサークル(鹿児島県人会)のメンバーが集まって宅飲みをしたのだが、私はひと晩中、次の日の「午前中」に配達予定だったSEE BY CHLOEのトートバッグのことが気になっていて、飲みかけのアルコールが入った缶やらスナック菓子の袋やら、その他色々なゴミが散乱した汚いフローリングの上で適当に体を休めたあと、朝5時頃になると早々に「荷物が届くから家に帰る」とその場を離れたようとしたのだけど、そのときに誰かが「受け取れなくてももう一回送ってもらえばいいじゃん」と言ったのがとても印象に残っている。世の中にはそういう考え方の人もいるのだなあと感心すると同時に、今となっては再配達が当たり前になってしまったが、当時の私にとって約束したのにその場にいないことは考えられなくて、なんて適当なことをするのだとびっくりしたのだった。20歳の誕生日を迎えた日もそうだった。当日は当時付き合っていた彼氏と原宿渋谷あたりへ買い物に行って過ごしたのだけど、父から「夜に素敵なプレゼントが届くから楽しみにしていてね」と言われていて、買い物をしながらも夜までにアパートに帰れるかどうかということばかり気にしていた。その頃の私にとって父との約束は絶対で、本当は指定された時刻に荷物を受け取れなかったくらいで腹を立てる父ではないのだが、私は父の期待に応えられないと父を悲しませてしまうと思っていたから何がなんでも夜までに家に戻って誕生日プレゼントを受け取りたかった。おそらく日本郵便で、20時から21時のあいだに指定されていたとおぼろげながら記憶している。夜までにきちんと家に帰って荷物がやってくるのを待っていた私のもとに届いたのは、誕生石であるトパーズで作られたオーダーメイドのピアスと父からの一筆箋だった。その後金属アレルギーになって一切のピアスをつけられなくなったのだけど、機会があればアレルギー対応のピアスにリメイクしたいと考えている。子どもの頃に母が作ってくれたバターロールの味。一緒にクリスマスケーキ作りのイベントに参加したこと。ピザを作ったことバナナのパウンドケーキを作ったことベイクドチーズケーキを作ったことパンプキンタルトを作ったこと。週末に作ってくれた卵をのせただけのオムライス。毎年ゴールデンウィークにはやすらぎ堤で開催されているフリーマーケットに遊びに行ったこと。津川まで足を伸ばしてきつねの嫁入りに参加したこと。お母さんがそんなことまでと驚くくらい今でも覚えている出来事がたくさんあって、ささやかなそれらのことが、30年近く経ったいま娘との生活を通してふとしたときに思い出される。思い出して懐かしくなる。懐かしくなって温かい気持ちになる。愛とか友情とかそういうものがいまいちよくわからなくて、特に人からもらう愛、好意というものがピンとこないのだけど、誰かに愛されることによってではなく娘に対して愛情を抱くとき、これが愛情だと確かにわかるときに、私が子どもだったそのときにも、たしかに愛はあったのだと信じることができる。

日記

コロナです。自分ばかりはぜったいコロナに罹らないと思ってたらあっさり感染した。夫も健康、娘も健康、保育園でコロナが流行っているわけでもないのにほぼ引きこもりの私はどこでコロナをもらってきたか。まじかあと思ったけど不幸中の幸いか急ぎの仕事はない。パンデミックが始まってから散々意識してきたことだけど空気ってみんなで共有しててどっかの誰かが吐いたりくしゃみしたりしたのを私が知らぬ間に吸ってたりするんだよなあ地球生命皆運命共同体。そういえばミスドで作業したとき隣のお兄さんがしきりにくしゃみをしていたなあとかバイト先で風邪気味っぽいカップルのお客さんがいたりしたなあとか思い出してもみたけれど、そんなことを考えても意味がない。昨晩寝る前からなんだか嫌な予感がして、今朝目が覚めたときには熱がある自覚があった。熱さと寒さが波のように交互に押し寄せてきてなぜか腰と股関節が絶望的に痛い。みるみる上がっていく熱、最後に39度台を出したのは5、6年前(よく覚えてる)だからこの風邪はふつうじゃないと思い、しんどすぎるから夫に病院付き添いしてもらった。これまで何度かコロナの検査はしてきたが今日受診した耳鼻咽喉科の先生は「私は鼻のプロだからね、この検査は痛いと評判だけど私は無駄に痛いようなことはしないわよ」とやけに自信を持っていたし実際ほとんど痛くなかった。陽性の診断がつき、会計をして薬局で薬をもらい腰が痛い股関節が痛いと騒ぎながらいったん帰宅。朝からほとんど食べてなくまた体調ジェットコースターでふらふらで、まず車を降りるときにドアで頭ぶつけてそのあとマンションの自動ドアで激しくおでこをぶつけてさすがにつらくて泣いて夫に手を引いてもらって自宅まで歩いた。ついこのあいだまでお互いイライラ、喧嘩が続いていたけれどこういう非常時になると夫はとても頼りがいがあるなあとしみじみ思う。自宅にいては娘の面倒でゆっくり休めないし、念のため数日間の義実家隔離。上げ膳据え膳で快適な環境を手にしたとたん体調が少し回復したような気がした。育児のない夜がこんなに自由だなんて。歩いてコンビニ行ったり無駄にテレビをみて夜更かししたり、はたまた仕事を進めたいような気もするが処方された大量の薬を飲んでまた寝る。

日記

いつからか「好きな食べ物は?」と聞かれて、答えに窮するようになった。帰省するたびについつい買ってしまうぽっぽ焼き。週末に料理をするときは冷しゃぶサラダや鍋といった簡単なものが多いが気分によっては手間のかかる料理もする。めちゃくちゃ疲れたときにはあのパティスリーに行って、人恋しくなったときにはあの人がいる町中華に顔を出す。カレーを食べたい気分のときに決まって足を運ぶ店もあるし、お気に入りのパン屋さんもあるけれど、どれも好きな食べ物というよりも、好きな人や店だったり、料理をするのが楽だったり、自分自身のルーティーンに組み込まれたりしているからという理由の方が強いような気がする。つまりは程度がわからなくて、どれくらい好きなら「好きな食べ物」ということになるのか、好きの度合いが低かったり、「最近のお気に入り」程度だったりするものは自分にとって好きの部類に入らず、極論「私の人生を総合的に判断し、好きなものを挙げるとすればそれはSigur rosと濱谷浩です。」みたいな話になってしまう。確定申告に向けて書類を整理していたら、昨年の春に買った「ひとつにならない 発達障害者がセックスについて語ること」の領収書が出てきた。発達障害にハマっていたのはたった一年前のことだったのかと思い出すと同時に、私はなんで診断を付けたかったんだっけ?と疑問に思う。薬を処方されたかったのもある。自分の特性に納得したかったのもある。でもそれ以上に、第三者に説明できる何か、自分が悩むこと、それ自体は間違っていないのだというお墨付きのような何かを手にしたかったのではないだろうか。ワンシートzine「ふつうがくるしい」(ふつうがくるしい - nov14b’s blog)の内容をブログで全文公開したときに、ツイッター上で「この人は発達障害じゃないと思うな」という感想を見かけた。結果的に診断はついたわけだが、発達障害に限らず、人が落ち込んだり悩んだりしていることに対して客観的を装って考えすぎだとか大した問題じゃないと言う人は少なくない。誰かに「それは大した問題ではない」と言われるとき、そのことに救われることがある一方で、自分の悩みを過小評価されたような気持ちになることもある。診断がないと認められない生きづらさって何だろう。どうして人が悩んだりつらい思いをしたりしていることを認められないんだろう。違う、そうじゃない。他者がどう受け取るかは問題ではない。どうして私は自分のつらさや悩みをそのまま受け入れることができず、客観的な判断に頼ろうとしていたのだろう。自立支援医療制度を利用するため形式上私に付けられた診断は双極性障害だった。低容量ピルを保険適用で処方されるために生理痛が重い「ということ」にするのと、自立支援医療制度を利用するためにあえて双極性障害の診断をつけるのはなんだか似ているような気がする。本音の症状、建前の診断。中学生の頃、定規で手首に傷をつける擬似リストカットにハマった。あるときたまたま私の手首の傷を見た母が咄嗟に「やだ、こわい」と言ったとき、私はこの先ずっと母親から心の痛みを理解してもらえることはないのだろうとショックを受けたが、いま振り返ると当時の心の痛みなど大したものではなく、皮膚むしり症と同じように一度始めたことを止められないだけだった。母には発達障害の診断を受けるにあたって生育歴などの問診に協力してもらったが、診断がついたにも関わらず「お母さんは発達障害じゃないと思うな」と言い続けている。そしてそんな母に、私は救われているのだ。